“無分別なひたすら”について

蔦谷の渡り廊下(?)から見上げた夕暮れの空
b0200225_16232583.jpg先日代官山の蔦谷に出かけたら、聞きしに勝る充実ぶりで!大興奮&スイッチが入ってしまいました。 そこで芋づる式に購入、あるいは家族の本棚から掘り起こした本たちが…道元和尚『典座教訓』、水上勉『土を喰う日々』(昔、母の本棚でも見たことがあった)、平松洋子『買えない味』(ドゥマゴ文学賞受賞)、石井好子『パリの空の下オムレツのにおいは流れる』(「バタ」という表現が好き)、阿川弘之『食味風々録』や、辰巳芳子さんの本などなど。


・・・と台所仕事にまつわる本を通じて、この一年くらい長々あれこれ考えていることのメモをば。


<“梅仕事”は浜子さんの言葉>
最近いそしんでる“梅仕事”っていうのも、ずっと芳子さんの言葉だと思っていたんですが、いつだったか読んだムック情報で芳子さんのお母様、浜子さんが、芳子さんに遺された言葉なんだと知りました。チョコチョコ読みはじめた平松洋子さんの『買えない味』に浜子さんのお名前が出てきて、そういえば私は浜子さんの言葉をあまり読んだことがなかったなぁと、更に『料理歳時記』を読みはじめたところ(歳時記というのがまたいいんだなぁ)。で、梅の項を見てみると、「梅酒には鹿児島産の焼酎がいい、いつもおほめの言葉をいただく」とあるではないですか(芋だったりするのかしらん!)。なんか今年ホワイトリカー2(乙類)で漬けた自分をでかしたとほめてやりたい気分になりました(ここにホワイトリカーの種類についてのメモをしました) たのしみだな。そして、なるほど浜子さんの本にも梅干しについても詳しく記されていますね。文字だけの本ですが、実際に思考錯誤する者にとってはとてもありがたい指南書だと思いました。浜子さんは、私たちの祖母、母親世代がお世話になった料理研究家さんなのかな。出会えてうれしいです。

<美しい本、芳子さんの本> b0200225_1547286.jpg・・・娘さんの話に戻って・・・
ちょうど10年前、本屋でうろうろ至福の時間を過ごし、そろそろ帰ろうかなと思ったところで観たことのある絵が目に飛び込んできました。直前に訪れたドイツ・バウハウスで買ってきたポストカード…Ludwig Hirschfeld-Mackの作品が表紙になっておかれていたのです。カラーチャートのような美しいグラデーションに引き寄せられ思わず手にすると、それが辰巳芳子さんの本でした。初めての出会いでした。

あなたのために』というタイトルのその本(サブタイトルは「いのちを支えるスープ」)には滋養たっぷりの強くて優しいスープのレシピが並んでいます。前書きにはこの作品と出会った時の共感と喜びがつづられ、「もう長いこと、料理は図式化できると考えていた。特にスープはぴったり図式化できていた。色は食材、並列は技法。それらのおのずからなる融合の美は、味というものの行き着くところと結びついた。自分の頭の中に在ることどもを、色と形で提示されたことは、まったき理解者とのめぐりあい、手に手をとった歓びに等しかった」と書いてありました。芳子さんはその後「展開料理」と称された家庭料理の方法論もご著書で紹介されていますが、その体系化につながるものが、この図式化という言葉の中にすでに立ち現われているように感じます。

…この本。後ろのページでお写真を見ると「あ、おばあちゃん先生!」・・・そんな芳子さんがこの作品に感銘を受けられ共感され、こんなに強くて優しい、まるで命を紡いでいくようなスープの本の表紙に選ばれたということが当時の自分にとって新鮮で、小さな宝ものを見つけてしまったような感動を覚えました。そして、中を開くと淡々とした口調でどこか男らしく、ちゃんとした距離感があり不必要に媚びたりしない在り方がとても好ましくて。

そして、一番重要に思えたのが、この本は料理をただ美味しいか否かだけでなく、また手早くそれなりに作れることが大切なわけでもなく、素材を大切にして生活を丁寧に営むことってとても厳しいもの、でも尊いものなのよということを教えてくれたこと。それまで出会って来た料理本とは趣が異なり、背中がピンと伸びるようなすがすがしさを感じました。ちょうど結婚する友人にふさわしい気がして早速一冊買ってプレゼントをし、自分の為に購入したのはその数年後のことでした。というのも、当時の自分には物理的にも心理的にも、それを実現するには数々のハードルがあってもう少し余裕が必要でした。


<典座教訓の教え> 
時が過ぎ少し生き方を変え、台所に立つことが多くなった今日この頃。「仕事の合間に無心になれてかつ最も手軽にクリエイティビティを発揮できる料理って良いストレス解消になるよね」などと言っていた感覚とはまた違った向き合い方をしています。外で食事をする時の心持も変わってきました。そして改めて芳子さんの言葉をひらいてみていると“永遠に毎日である”日々だからこそ響くことが沢山ありました。

b0200225_1749546.jpg例えば、台所仕事について芳子さんは「指の間から砂がこぼれ落ちるような感覚」と表現されています。なるほど、と思えた部分もあったけれど、それなりの時間それなりの覚悟をもって経験してみるまでは、正直想像できない感覚だとも思いました。台所に立ち続けた女性たちが「積み上げては崩す」ことを繰り返しながら喜びとともに少なからずや感じる無常、虚しさ。それを、芳子さんも同様に感じ、そこから抜け出すために苦しんだ経験を持っておられたことにちょっと驚き、そして親しみが湧きました。完璧で余裕に見えていたから。そしてそんなときに芳子さんは道元和尚の『典座教訓』を紐解かれたそうで、なるほど私も読んでみようと。典座(てんぞ)とは禅宗寺院で修行僧の食事、仏や祖師への供膳を司る食事係のことで、この『典座教訓』には典座が守るべき教えが書かれています。

また、芳子さんと円覚寺の老師のある対談文のなかで、この道元の教えについて触れられています。“いわゆる世間一般の通念によって出来上がった価値観が自分自身を苦しめている”と。では本来性(もっと根源的な価値観)とは何だろうか、と考えます。そして“即今只今(今、ここ)”の大切さといった言葉も胸に響きました。そして老師は“無分別なひたすら”こそ、一番尊いと仰っていて、これにハッとしました。

たった10年ながら組織の中で過ごした日々をちょっと振り返ってみました。組織の中で働く上で、大勢の人間のベクトルを合わせ大きな成果を上げていくためにはある程度分別よく居られることが必要な素養になる。一方で分別ばかり気にしてると、誰かの心を芯から震わすような創造性など生まれないかもしれないという想いはいつもありました。あるいは、人とのかかわりにおいて優しさの在り方も間違えてしまうかもしれない。ここぞという時さえ「自分がどう見られるか」と分別し、突っ込んで何かを言ってもらう、言ってあげるなんてことがなくなってしまうなんて、私はちょっと寂しいなと思う。なので組織の理屈のなかで成果を上げることと、「事なかれは嫌」とジタバタすること、両方を自分なりのバランスで大切にしてきたつもりなんですが、、、それでも!それでも自分もやっぱりどこか“世間一般の通念によって出来上がった価値観”に寄って飼いならされたところがあるのかなぁ、と。ゆえに“無分別なひたすら”という在り方になじめないのかなと。

で、“無分別”でいるということの辛さというのは「評価されることがあたりまえ」で生きてきた社会人生活の、いわば弊害なのか? などと考えてみるのですが、そういった生活を離れてちょっと俯瞰してみるに、個人への評価ということでいえば良い評価も悪い評価も、なんだかあまりしっくりこないなというほうが実は自然なことなんじゃ?ともともと思ってたりしたわけです。またもっと大きな組織の評価ということでいえば、これはあちこちで言われていることではありますが近視眼的な評価の虚しさというか…局所的な利に執着することで失うものの大きさを想うようなことが多かったように思います。つまり、そもそもこの仕事には時には無分別な選択が必要だが、それは状況によっては組織に相容れないというジレンマはずっとあったと思うし、自分を補強しようとして分別よく在ろうと考えるくせはついているけれど、・・・要は根本的な部分では無分別(理性より感性)だと思うんです、自分。
なので、私の場合“無分別”より“ひたすら”が辛いんではなかろうかと。アートのそばで仕事することに対して「これはライフワークだ」などと言いきかせながらも、結局のところは1年、3年5年10年…と期限をもって結果を出していくことに慣れ過ぎてたんじゃないか(もちろん、組織としては結果が出せること自体はいいことだが、同時に分野としては「継続」に重きをおかないといかんわけで。でも「継続」を前提とした体制・評価基準ではなかったりするわけで)
つまり“ひたすら”ということに実はそれほど慣れていなかったというか。総じて家事というものが想像を超えた“永遠なるひたすら”なライフワークであったというか。その上、その楽しみとかいった境地まではとてもとても。でも、家事って実は一気にそんな世界なんですよね、驚くことに。禅の修行のよう。「自分を虚しくさせないとやりおおせないのです」という芳子さんの言葉は、ひたむきに家事に向き合った人だからこその言葉だなと納得しました。そう、それを続けられる理由は、はれた惚れた、愛情、とかいったことで一緒に語るには無理があるというか違和感のあるというか、そんなきれいごとではなく、かといって屈折したものでもなく。なんなんだろうか。女性特有の感覚?とかいう不明瞭な表現で片付けたくないけれど。。



そんなこんなで「何が理由でそうなのか」ということがわかってくるとちょっと肩のあたりが楽になってくるのが私です。で、このあたりの思考については、先日原田マハさんに会いたくて出かけた日本トルコ協会の講演会で聞いた“トルコの女性の生き方を見て、経済に浸食されぬ領域大切にしたいと改めて思った”という社会学の小笠原先生のコメントにリンクするものもあります。今は、女性が第一線で活躍できる生き方を選べる素敵な時代で、もし結婚しても出産しても働き続けるのが当たり前の時代かもしれません。私自身の状況もまたかわっていくでしょう。でも、ひと時であったとしても、台所仕事を通じ女性の在り方や生き方についての多様な価値観を再構築してみる視点があってもいいのかもしれないなと思ったのでした。ここに考えが至るまでが思いのほか長かった、そして、結局想像で語ることは弱いと、新しい何かを体験するたび自戒するのです。少なくとも、これまでの日々には、これらの本を読んで考えて考えて気づいたような価値観に足を止める機会は皆無でした。ちょっとした衝撃です。




<大地の上に生きているのに…>
オマケに、引き続き水上勉さんの本を読むと、なんと水上さんは幼いころ寺で修行御し典座を務めておられるではありませんか。精進料理にそこまで興味があるわけではなかった私ですが、なぜここにかかれる食べ物たちがこんなにもいとおしく貴重なものに思えるのか…と考えはじめました。ちょうど山に向かう列車の中ででした。

震災後に関東に越してきてみて、食べたい時に食べたいものを自然に買えないということを経験したからなのかもしれませんが、最近私は、これまで以上に日本の旬を感じて暮らしてみたいなと思うようになりました。それって土や水や光を感じながら生きたいということなんですよね。土を意識するということは、春の早いうちは南の方、そして時間がたつと徐々に北に産地が向かっていくということ。でも季節は流れていくのに、まるで時が止まったかのように、マーケットではなんでもいつでもたいていのものは手に入っていた。流通システムって凄いなぁと改めて思うと同時に、それを維持するためにあちこち無理をしているのが今の日本なのかなと。もっといえば、そんな小さなシステムよりももっともっと大きな力の為にそのシステムまで使えない、出荷できないような事態にまでなっているけれど。

寒い冬、庭で収穫し蓄えておいた限られた食材を用い、その皮や根まで大切に扱い料理する水上さんは「一茎草を拈りて宝王刹を建て、一微塵に入りて大法輪を転ぜよ」・・・つまりは素材の良し悪で態度を心を変える資格など私たちにはない、手に入った材料を常に丁寧にあつかい尊重して生かせば、必ず食膳の隅でぴかりと光る役割がある、それをひきだすのが料理である、と道元和尚の典座の教えをもって教えてくださっています。

なんだか、そんなことを読んでいると、いつでも何でも手に入れて当たり前で、それゆえ時に粗雑に扱うことも多い「今」という時代に生きる自分たちに「思いあがるな」といいたくなりました。いやもっと早くそう気づかなくてはならなかったし、方向転換しなくてはいけなかったのかもしれない。近代化っていったいなんだったんだろうなぁと。大地の上に生きているのに大地を感じられず、なんとなくそれを維持するしかなくがんじがらめになっている私たちは全然豊かなんかじゃないなぁ、どうしたらいいのかなと。

・・・と考えつつこのメモを寝かせていたのですが、この週末青山ABCでの「日本再再再発見」で聞いた美術評論家椹木野衣さんのトークのなかに、自分的にプチプチと結びついてくる話題があって(「この世のあらゆるシステムが依って立っている大地は、はたして近代文明築くための土壌であったのかという根源的な疑問」に立ち戻るところからはじめてゆく美術の話)、引き続きそのメモを記しておかねばと興奮しています。まだまとまらないのでそのうちに。 




<幸せのおすそわけ>
b0200225_16333520.jpgひとまずの最後に。お料理スキだったはずなのに、毎日のこととなるとなんだかどれも今一つに思えてきていたころ、お料理を教わりはじめました。食材の選び方、素朴な疑問、触れ合いながら口伝えにおそわれるということの嬉しさ。そして家族からの「おいしい」はもちろんだけど、「あ~おいしい!文句なくおいしい~!」と自分が認められるお料理が一つでも二つでもふえるとこんなにもたのしく自信になるものなのかと(笑) そして、その美味しいお味は、人が人知れず積み上げた経験の上に生まれた“宝物”だと感じたのですが、「教室なんて仰々しいから、勉強会ってことにしましょう」とざっくばらんに接してシェアくださる私の先生。当然私が得ることばかり。その在り方に「あぁ、こういうのってまさに、幸せのおすそわけなんだなぁ」と素敵に感じました。本当にありがたいです。


誰かに手渡しで渡していくというあったかさに支えられながら、ようやくなんとか“無分別なひたすら”に対する体力がついてきた私です。

ただまあ何にしろ「何故こういう状況なのか」とか考えずにはいられないところが、そもそも青くて「ただそこに居続ける」、そんな風になれるとよいのですかね?…って修行僧を目指すわけではないのですけども。硬くて長時間座禅も組めないし。


(以上、考えながら随時加筆)
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by setouchilove | 2012-07-02 19:00 | 横浜日常


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